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命を留める。

春の手仕事で、桜の塩漬けがある。

 

季節もの、にプラスしてそこに意味が付け加わった。

“命を留める”作業。

儚く、美しいとされる一瞬の命を留めることに

わたしは一体どんな想いを馳せるだろうか。

3年越しの手仕事。

毎日眺めてみては、丁寧に変化を感じ取ってみたい。

目の前のことを丁寧にこなす理由。

わたしがやりたいのは、羨ましがることじゃない。

今,自分が飛び込んだ場所で、

頂いたお仕事を丁寧にやっていくことで、

きっと自分自身とも向き合えると信じているから。

この一年は、自分とたくさん悩んでいいんだ。

あれ?って思ったことを見逃さない。

一個ずつ拾って、どうしてそう考えたのだろうって、

とことん自分に付き合っていこう。

きっと、今、この行程をするのが必要だった。

これから起こることに、わたし自身がブレないように

軸をちゃんと時間かけて作っていこう、て。

どんな状況でも、「きっと,大丈夫。」て言えるように。

うまくやろうなんかしなくていいんだ。

たくさんたくさん、精一杯悩んで、考えて、これかもっ!

てなれたら、ラッキーかな。^^

思い込みと事実。

来たら困る。

 

とは誰も言ってない。

でも、わたしはその場所に

行けない,もしくは状況次第でいきたくない。

なぜなら、羨ましがってしまうから。

居場所を盗られたと、感じてしまうから。

わたしが持つべき感情はそういうことじゃないから。

そんな風に感じたくないから。

邪魔者扱いされると思っているから。

苦しくなるから。

あの感情を二度と味わいたくないから。

そんな荒んだ心の人間の、同じ土俵に上がりたくないから。

ちゃんと堂々と自信を持ったら、歓迎されて,

行きたいと思っているから。

わたしの代わりなんてたくさんいて,求められていないと

感じているから。

誰も必要としてないと思っているから。

わたしがいると、迷惑になると思っているから。

本心はそうなのに、上辺で気を使ってそういっていると思っているから。

感じ方。

はっきりしない空模様を、わたしはキレイと思う。

 

それを母に言うと

「はぁ???はっきりしない天気でやんなっちゃう」

と返ってくる。

 

感じたことに,いいも悪いもないから、それはそれでいい。

 

最近よく感じるのは、

実は昔から、自分の感じたことに否定される習慣が多かったのかなぁ?ということ。

体調が悪いと、自己管理がなってないといわれ、

休むと人格を否定されるくらいのこといわれてきた。

気がする。

思ったことを口にすると、怒られていた印象が強くて。

また嫌われるんじゃないかと、

悲しい気持ちになることがあった。

自分の意見を肯定してくれる人はあまりいないのかな、

そんなあきらめのような気持ちが大きかったから

いつしか「わたしなんて、どうせ・・・」

という気持ちと、

肯定してくれる人はあまりいないから、

自分は特殊なんだ、押し通していこうと思いながらも

嫌われたくないから、人の顔色伺って

過ごすクセができあがったのかもしれない。

 

 

“わたしが出た”理由。

今“ここ”に居続けることが、わたしにはとてもできなかった。

心が壊れかけてた。

何でこれ以上、わたしだけが我慢しなければならないのか。

何よりも、もう、限界だった。

 

もう、なにも信用できなかった。

裏切られた、という気持ちが大きすぎた。

自分で、自分の力で、“ここ”を出て行くことが、

わたしの精一杯のプライドだった。

 

自分の足でここに飛び込み、

自分の足で“ここ”を去ることができた。

自分で決めて,自分で行動を起こせたこと。

 

 

小さなわたしの、自信。

 

いつか、絶対に、この行動を起こせた自分に

大きく感謝するときがくるとおもう。

 

まだ先のことだから、それはこっそり心に持っておこう。

やってみたいこと。

5月までに!

・同窓会でBBQ

・お花見(おかず4品とアルコール4種?・ノンアル3種)

AL:ビール・シャンンディーガフ・ジントニック・ジンジャーハイボール・ジンバック(ジン+ジンジャー)、ケーブルグラム(ウイスキー+レモン+砂糖+UP用ジンジャー)

NO:ジンジャービアー(ライム)、自家製コーラ、シャーリーテンプル(レモン、ライム、グレナデンシロップ+UPソーダ)

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食事と会話を楽しむ

お酒のある空間

どこでも空間を作れること

おつまみは季節のお仕事ものを。

たべること。

 

学校での授業と、お仕事を通して、『たべる』ということを見て、体験して来たわたしにとって

 

毎日その行為と意味について考えるクセがついている。

(習慣というのか,クセというのか)

 

 

たべることができるのは、当たり前じゃない。

様々な作り手がいて、素材を生み出し、それを調理してくれる人がいて、食べてくれる人がいて。

 

それが記憶になって積み重ねられていく。

 

 

 

日常を共有できることは、生きる上でとても必要不可欠なことなんじゃないかなぁって、ここ最近特に思う。

日常に寄り添う。

何かと今の時期、特別なことに目と心がいきがちで。

日常の些細なことにふと気づいては、さっと通り過ぎてしまっているように感じる。

 

 

人生は、日常を積み重ねていったひとつの“かたち”になるのだから。

 

大事に,大切に、日常というものを捉えて生きていきたい。

慣れない遊び心をもつ。

どんなに自分が望んでいない仕事だろうと。

 

どんなに気持ちがもてない相手とのやり取りだろうと。

 

すべては自分の捉え方次第。

 

この環境に自ら飛び込むとは思わなかったし,日々これでいいのか考える。

 

それでも、ここを選んだには意味が在る。

『どんな場所でも“わたし”で在ること。』

 

シンプルすぎて、むずかしいんだなぁ。

 

どうやっていこうかな。

『たべる』と『いただく』のそもそも論。

『たべる』は命をつなげるために生き物としてやり続ける行為、行動。

 

 

『いただく』というのは、行為よりも、精神的なことをいっているように思えた。

何をいただき、何を感じ、わたしの体が出来上がっていくのか、

それは生き物である以上、いずれ訪れる死が直面したときに、より一層深く向き合い、わたしはこうだったのだろうかと、ゆっくりと振り返りながら味わっていくのではないかと。

 

 

[今]はそう思う。