たべること。

 

学校での授業と、お仕事を通して、『たべる』ということを見て、体験して来たわたしにとって

 

毎日その行為と意味について考えるクセがついている。

(習慣というのか,クセというのか)

 

 

たべることができるのは、当たり前じゃない。

様々な作り手がいて、素材を生み出し、それを調理してくれる人がいて、食べてくれる人がいて。

 

それが記憶になって積み重ねられていく。

 

 

 

日常を共有できることは、生きる上でとても必要不可欠なことなんじゃないかなぁって、ここ最近特に思う。

日常に寄り添う。

何かと今の時期、特別なことに目と心がいきがちで。

日常の些細なことにふと気づいては、さっと通り過ぎてしまっているように感じる。

 

 

人生は、日常を積み重ねていったひとつの“かたち”になるのだから。

 

大事に,大切に、日常というものを捉えて生きていきたい。

慣れない遊び心をもつ。

どんなに自分が望んでいない仕事だろうと。

 

どんなに気持ちがもてない相手とのやり取りだろうと。

 

すべては自分の捉え方次第。

 

この環境に自ら飛び込むとは思わなかったし,日々これでいいのか考える。

 

それでも、ここを選んだには意味が在る。

『どんな場所でも“わたし”で在ること。』

 

シンプルすぎて、むずかしいんだなぁ。

 

どうやっていこうかな。

『たべる』と『いただく』のそもそも論。

『たべる』は命をつなげるために生き物としてやり続ける行為、行動。

 

 

『いただく』というのは、行為よりも、精神的なことをいっているように思えた。

何をいただき、何を感じ、わたしの体が出来上がっていくのか、

それは生き物である以上、いずれ訪れる死が直面したときに、より一層深く向き合い、わたしはこうだったのだろうかと、ゆっくりと振り返りながら味わっていくのではないかと。

 

 

[今]はそう思う。