たべること。

 

学校での授業と、お仕事を通して、『たべる』ということを見て、体験して来たわたしにとって

 

毎日その行為と意味について考えるクセがついている。

(習慣というのか,クセというのか)

 

 

たべることができるのは、当たり前じゃない。

様々な作り手がいて、素材を生み出し、それを調理してくれる人がいて、食べてくれる人がいて。

 

それが記憶になって積み重ねられていく。

 

 

 

日常を共有できることは、生きる上でとても必要不可欠なことなんじゃないかなぁって、ここ最近特に思う。

日常に寄り添う。

何かと今の時期、特別なことに目と心がいきがちで。

日常の些細なことにふと気づいては、さっと通り過ぎてしまっているように感じる。

 

 

人生は、日常を積み重ねていったひとつの“かたち”になるのだから。

 

大事に,大切に、日常というものを捉えて生きていきたい。

慣れない遊び心をもつ。

どんなに自分が望んでいない仕事だろうと。

 

どんなに気持ちがもてない相手とのやり取りだろうと。

 

すべては自分の捉え方次第。

 

この環境に自ら飛び込むとは思わなかったし,日々これでいいのか考える。

 

それでも、ここを選んだには意味が在る。

『どんな場所でも“わたし”で在ること。』

 

シンプルすぎて、むずかしいんだなぁ。

 

どうやっていこうかな。

『たべる』と『いただく』のそもそも論。

『たべる』は命をつなげるために生き物としてやり続ける行為、行動。

 

 

『いただく』というのは、行為よりも、精神的なことをいっているように思えた。

何をいただき、何を感じ、わたしの体が出来上がっていくのか、

それは生き物である以上、いずれ訪れる死が直面したときに、より一層深く向き合い、わたしはこうだったのだろうかと、ゆっくりと振り返りながら味わっていくのではないかと。

 

 

[今]はそう思う。

私がわたしのことを丁寧にやっていくためにやること。

一年という、たくさんの時間をかけて頭に落とし込み、体に染み込ませていくこと。

季節の食べ物をいただき、その時にあった保存食を作ってみたり、時間の経過を楽しんでみる。

それを大切な人と一緒にたべる。

また、時には大切な人を招いて振る舞ったりして、空気感を共に味わいたい。

 

 

よーく、よーーーーく時間をかけて丁寧に、じっくりやっていこう。きっと試行錯誤のまいにちだなぁ、こりゃ。

わたしをたのしんでいこう^^

生活に組み込まれている、『たべる』ということの見直し。

私は料理人向きではなく、それもきっと望んでいない。

羨ましがることにも疲れたし、それをすることは『わたし』がちゃんと創られないと感じた。

わたしがいいと感じたものは否定することなくきちんと受け入れたい。

作る、たべる、という行為はもっとシンプルで、人と人を繋ぐにはそんなに多くの情報はいらないかもしれないと思う。

感じたことを,芯の部分以外丁寧に削ぎ落としていって、その人なりに感じ取れる形に仕上げることもまた料理の形としてあってもいいんじゃないかなと思う。

ほんの少しの日々の移ろいが、日本の四季となって、今を生きていく私たちになにをどんな風に感じさせてくれるのか、もっと丁寧に向き合おう。

相場。への自分なりの解釈。

豪華なものじゃなくて、特別なものじゃなくて、積み重ねていける料理がすき。それを人と楽しんで、話しながら食べることが好き。

相場って、相手と気持ちよくやり取りができるその場の決めコトなんじゃないかな。

海外に行って、言葉や習慣や物価が違う中で、よくわからなくても、自分が満足して、相手も気持ちがよかったなら、それは◎ってこと。そこには人の感情が入り込んでくるから綺麗に割りきれない時もあるけど。

それもその時・その場の『相場』何だと思う。

 

[よくあること][平均的な]ではなく、相手とのやり取りで生まれるものだと思う。

 

 

やりたい事の構想。

生きていく中で、誰かにとって よかったぁ。と思う事を提案できて、それがモノでもコトでもいいから、その人にとって(居)心地のいいものに変わって(そこまでお付き合いできれば◎)いけばいいなぁ、とおもう。

 

そんなお手伝いだったり,ヒントだったりを出せるひとになりたい。